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バーチャル・ミュージアム案内



令和2年度(2020年度)秋季特別展
「万国博覧会―”人類の進歩と調和"に至るまで―」


看板画像

 日本で初めての国際博覧会である日本万国博覧会(大阪万博)が1970年(昭和45年)に大阪府吹田市の千里丘陵で開催されることが正式決定したのは、1965年(昭和40年)9月14日であった。1964年(昭和39年)の東京五輪に続く大型イベントであり、その開催は経済面で東京に大きく水をあけられた大阪において一部政財界の悲願でもあった。しかし、そうした政財界の動きにあらがうように、万博を経済論理だけでなく、文明の祭典として意味あるものにしようと話し合い、その具体案を“勝手”に調べ、議論した男たちがいた。自主研究会「万国博を考える会」のメンバー、民族学者・文明学者の梅棹忠夫、SF作家の小松左京、社会学者の加藤秀俊らである。実はこの「考える会」は、かの有名な「人類の進歩と調和」という大阪万博(1970年)のテーマを生み出す元となった基本理念の草案を考えた黒衣であった。この基本理念で「考える会」は、それまでの「人類の不調和を伴う進歩」から脱却し、「人類の多様な知恵を使った調和的進歩」へ転回することが必要であると主張した。つまり、地球上の人類のあらゆる「知恵の存在」を、調和的進歩を果たすために重要なものだと位置付けたのである(五月女、2020b)。
 バーチャル・ミュージアムでは、万博においてテーマというものが重視されるようになった過程を主に時系列で辿る。まず第1章で、フランス産業博覧会(1798年-1849年)や医学館薬品会(1844年)などの「万博前史」を、次に第2章で、第2回ロンドン万博(1862年)やウィーン万博(1873年)など、テーマ設定以前またはテーマが重要な役割を果たすことがなかった頃の万博や類似事業を、「近代博覧会」として紹介する。ここまでの万博は、産業革命の負の側面や戦争などによって引き起こされる不調和に注目するようなことはなかった。課題解決に資する万博、つまりテーマが重要性を帯びるようになる万博の誕生は1950年代後半から1960年代を待たねばならなかった。第3章では、ブリュッセル万博(1958年)や大阪万博(1970年)など、テーマが重要な意味を持つようになって以降の万博を「現代博覧会」として紹介する。特にこの第3章では、大阪万博前史として、人類が直面する核の脅威や公害などの課題解決をめざす一方で、ベルギー領コンゴの人々を見世物的に「展示」して批判を浴びたブリュッセル万博(1958年)などを紹介することを通して、万博がテーマを重視するに至った歴史を振り返る。また、日本が1970年(昭和45年)の万博開催を模索するようになる中、「考える会」が果たした役割について紹介する。「考える会」が残した最大の成果といえば、大阪万博(1970年) の基本理念である。その内容について主に「調和」の側面に焦点を絞り紹介する。

〈凡例〉
〇このページは、令和2年(2020年)10月3日から同年11月29日にかけて開催された令和2年度(2020年度)秋季特別展「万国博覧会――“人類の進歩と調和”に至るまで」のバーチャル特別展示である。
〇掲載資料の番号は図録『万国博覧会――“人類の進歩と調和”に至るまで』に準ずる。
〇所蔵者を記載していない資料は個人蔵である。
〇旧漢字は一部を除き原則として新字体に改めた。
〇特に記載のない文章は当館学芸員五月女賢司が執筆した。
 
  • 目次




第1章 万博前史ー産業見本市としての博覧会ー

 1851年(嘉永4年)に世界で初めてのロンドン万博が開催されたが、博覧会やそれに類似した事業はそれ以前からヨーロッパ各地で実施されていた。これらの事業は、産業革命によって人々が豊かになりつつある中で、新たに求められる社会の変化に対応する目的で開催されたものである。例えば、1798年(寛政10年)から1849年(嘉永2年)まで11回に渡って開催されたフランス産業博覧会では、展示品を非売品とし、優れた製品には審査により賞を授与するといった近代博覧会につながる体系を成立させた。
 一方、江戸時代の日本では薬品会や物産会という名の展示会が開催された。始まりは、1757年(宝暦7年)に江戸で田村藍水が開催した「薬草会」であった。その後、各地で薬品会や物産会が開催された。
 これらの博覧会やそれに類似した事業は、産業の発展を目的にしたものであり、発展自体を批判的にすら検討するという現代博覧会の思想とは性格が大きく異なる。

近代博覧会の体系が成立:フランス産業博覧会(1798年〜1849年)

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1-1-3. 第10回フランス産業博覧会: 褒賞メダル
1844年(天保14年)
 ルイ=フィリップ1世の肖像が刻まれたブロンズ・メダル。優れた製品には審査により賞が授与された。

日本の博覧会のルーツの一つ:医学館薬品会(1844年)

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1-2-1. 医学館薬品会
尾張名所図会 前編 二ノ廿一頁
小田切春江 画
1844年(天保15年)
 銅像人骨、虎や蛇の皮、化石などが描かれている。



第2章 近代博覧会ー科学技術振興や国家間競争の博覧会ー

 本章では、万博にテーマが設定される以前またはテーマが重要な役割を果たさなかった頃の万博や類似事業について紹介する。
 1851年(嘉永4年)に世界で初めての万博が英国で開催されると、英国以外の欧米各国も、殖産興業とそれを支える文化・芸術や教育制度などによる新しい国づくりを促進するために、多くの知識や経験、製品を集め、新しい技術を普及させようと、万博を開催するようになる。また万博は、こうした技術の普及のための競争を促進すると同時に優良製品の標準を示し、市場に評価されるものを作り出す装置としても機能するようになっていった。さらに、輸出促進と技術の国内外へのアピールによる国威発揚や、国民への教育・啓蒙、娯楽の提供も図られるなど、万博には様々な意図が込められた。ここに、万博の原型が完成し、日本を含む世界各国に万博文化が広がっていった。
 20世紀という新たな世紀に入る頃になると、産業革命による社会の変化が一段落する一方、交通手段や情報伝達手段が向上し、狭くなる世界の中で国家間の競争が激しくなる。そのような時代を受けて博覧会、特に万博は、国威発揚の装置としての意味をさらに強めていく。こうしたなか、パビリオンの形態がそれまでの巨大な建造物の中に国別のエリアを設けるスタイルから、19世紀末頃からは国別にパビリオンを建設するスタイルへと変化し、現在の万博における国別にパビリオンを建設する形態につながっていった。
 万博でテーマが設定されたのは、シカゴ市制施行100周年を記念したシカゴ万博(1933年〜1934年)が初めてであった。シカゴの100年が産業革命以後の近代化100年と重なることから、「進歩の一世紀(A Century of Progress)」がテーマとして設定されたのである。しかし、テーマの必要性が切実とはみなされなかったこと、またテーマの背後にそれを支える基本理念が確立されていなかったことなどにより、シカゴ万博(1933年〜1934年)では、テーマは十分な役割を果たすことができなかった。
 この時期には、BIE条約(国際博覧会条約)が成立し(1928年)、条約に基づきBIE(博覧会国際事務局)が設立され、万博開催のための統一基準が作られた。

世界初の万博:第1回ロンドン万博(1851年)

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2-1-1. クリスタルパレスの銅版画
View from the Knightsbridge Road of the Crystal Palace in Hyde Park for Grand International Exhibition of 1851. Dedicated to the Royal Commissioners, London: Read & Co. Engravers & Printers, 1851.
1851年(嘉永4年)
 ロンドン万博の会場。造園家のジョセフ・パクストンが設計した鉄とガラスの建築物の銅板画。

万博と出会った日本:第2回ロンドン万博(1862年)

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2-2-4. 日本文化展示のステレオグラム(立体写真)
London Stereoscopic and Photographic Company
1862年(文久2年)
 立体的な印象を持つよう意図的にずらして撮影された2枚の写真。通常、専用の器具に取り付けて見る。


日本(幕府、薩摩藩、佐賀藩)が正式に出品した初めての万博:第2回パリ万博(1867年)

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2-3-3. 清水卯三郎の茶店
Le Monde Illustre, N°546, Paris: 28 Septembre 1867
1867年(慶応3年)
 江戸の商人、清水卯三郎が連れてきた3人の柳橋芸者がいる茶店。多くのフランス人にとって初めて目にする日本女性ということで、大いに注目を集めた。


日本初の“博覧会”:京都博覧会(1871年〜1928年)

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2-4-1. 京都博覧会: 「我邦最初の明治4年京都博覧会 趣意書 写」
博覧会目録 全
京都博覧会社
1871年(明治4年)
 1871年(明治4年)の京都博覧会の会期終了後、早々に上梓された和綴木版刷の目録の末頁に添付された設立趣意書。会主の3人が編集した。この目録の序文は京都府参事で京都博覧会をはじめ京都近代化の推進者であった槇村正直が書いている。槇村は後に京都府知事になった。以下、趣意書の内容である。

我邦最初の明治四年京都博覽會
趣意書 寫
 博覽の會たるや人の智識を開くにあり、國の富強を輔くるに在り。故に廣く天産の奇物を集め人造の妙器を列す。是に由て以て発明開悟することあらば半日の遊目も亦十年の讀書に勝り、一事の産業も終身の幸福を保つに足らん。仰ぎ冀くば天下善を好とするの家藏品を吝まずして之に加へ、有無交易の通義を擴め、人と輿に善を爲すの美事を拳げ玉へ。俯して望むらくは四方業を勵むの客遠來を憚らずして之に臨み、現世經濟の公益を謀る利用厚生の急務を講じ玉はんことを。三月十日に始り四月晦日に畢る五十日間、警衞を本府に請ふて豫め災禍を意表に防ぎ、數萬里外告票を異域に發して將に讃評を宇内に索んとす。遠人必ず至らん、賣買の盛なる竝なし。新器果して出づべし、功夫の益甚だ多し、會場は本願、知恩、建仁の三寺、會主は三井小野熊谷の三名、謹んで趣意を表す。請ふ來り熟覧あれ。
京都博覽會社

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2-4-7. 第2回京都博覧会: 為博覧会入京之証(外国人用)
京都博覧会社
1873年(明治6年)
 第1回で使用されたものと同じデザインであることが分かっており、第1回の博覧会入京之証である可能性もあるが、第2回京都博覧会の外国人入京規則(英語)と一緒に保管されていたため、第2回目のものと推定される。


明治政府として初めて開催した博覧会:湯島聖堂博覧会(文部省博覧会)(1872年)

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2-5-1. 古今珍物集覧 元昌平坂聖堂ニ於テ 三枚続
一曜斎国輝 画
1872年(明治5年)
 文部省博物局が全国各地の物産を集めて展示した。正面の建物と左右の回廊の棚に様々な陳列品が並ぶ。名古屋城の金の鯱や山椒魚のほか、正面の堂内には絵画・書・珊瑚・金工品、右の棚に剥製・骨格標本・額画、左の棚に染織品・漆器・楽器・陶器類などが並べられている。

  

明治政府として初めて参加した万博:ウィーン万博(1873年)

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2-6-3. 澳国博覧会場本館 日本列品所 入口内部之図
澳国博覧会参同記要
田中芳男、平山成信編
1897年(明治30年)
 日本展示場の様子。1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会(文部省博覧会)と同じ名古屋城の金の鯱がみえる。佐野常民らを中心に全国から集められた陶磁器、扇、扇子、生糸など日本全国の優れた工芸品も出展され、日本的で精巧な美術工芸品が海外で好まれた。


日本でも本格的な博覧会を:第1〜5内国勧業博覧会(1877年〜1903年)

 
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2-7-1. 第1回内国勧業博覧会:内国勧業博覧会儀式 三枚続
早川松山 画
1877年(明治10年)

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2-7-8. 第4回内国勧業博覧会:第四回内国勧業博覧会有功賞受領 ポンプ 引札


先進国の仲間入り?:日英博覧会(1910年)

 
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2-9-5~6. 絵葉書
1910年(明治43年)
 これら2枚の絵葉書からは、英国から日本に対する東洋趣味のまなざしと、日本から英国に対してアイヌ支配を知らしめる日本の対外戦略の断片という2つの交差を見て取ることができる。

  

初めてテーマが設定されるも・・・:シカゴ万博(1933年〜1934年)

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2-11-2. 参加各国のパビリオン
公式冊子(画帖)
1933年(昭和8年)


ナチズムとスターリニズムが正面から向き合った:第7回パリ万博(1937年)

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2-12-1. ドイツ館のパンフレット
1937年(昭和12年)

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2-12-2. ソビエト連邦館の写真
Photographies en Couleurs, Album Offieciel, La Photolith, Paris: 1937.
1937年(昭和12年)


幻の日本万国博覧会:紀元2600年記念日本万国博覧会(1940年)

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2-14-4. 絵葉書(行進曲の楽譜と歌詞)
紀元2600年記念日本万国博覧会発行
1938年(昭和13年)4月21日



第3章 現代博覧会ー意味あるテーマを設定するようになった万博ー

 2度の世界大戦で、今まで人類が経験したことのない被害を人々は目の当たりにする。そのため、そうした失敗を繰り返さないようにという強い意志が国際社会で共有され、万博は一つの場を様々な国が共有する平和の祭典へと意味合いを変えていった。
 こうした新しい時代の万博では、科学技術が世界大戦での被害を大きくしたということに対する批判をかわしつつ、科学技術こそが夢の未来を作り出すための有効な手段であるということを人々に認識させる目的を持つようになる。取り扱うテーマが宇宙、原子力、電気など、目に見えないものであることも多いため、映像などの技術を駆使する手段が展示にも取り入れられるようになった。ニューヨーク万博(1964年〜1965年)で、ウォルト・ディズニーが手掛けた最新技術による4つのアトラクション「イッツ・ア・スモールワールド」、「フォード・マジック・スカイウェイ」、「リンカーン氏とのすばらしい時」、「発展の回転劇場」の演出からも、展示手法の変化が見て取れる。
 その一方、ブリュッセル万博(1958年)やモントリオール万博(1967年)は、シカゴ万博(1933年〜1934年)以降の万博において一種の「ラベル」にすぎなかったテーマ設定に、人類が新たに直面する核の脅威や公害などの課題に正面から向き合う姿勢を付加し重視した。背景には、第二次世界大戦後、商品の見本市的な側面としての万博の優位性の低下や、戦争や公害問題などの存在の顕在化により、テーマが実質的な意味を持ち始めたことがある(五月女、2020b)。
 しかし、ブリュッセル万博(1958年)に関して忘れてはならない負の出来事がある。この万博は、それまでの万博同様、ベルギーが植民地支配をしていたベルギー領コンゴの人々を見世物的に「展示」し、来場者がコンゴの人々を動物扱いするよう仕向けた「人間動物園」だとして、批判を浴びたことでも知られているのである。ベルギーが植民地支配する地域の人々をベルギーに連れてくるという非主体的実態によって行われたベルギー領コンゴの展示は、アフリカをはじめとする多くの植民地が独立を果たす1960年代を迎える直前の時代における、「多様性」に対する欧米諸国の考え方の限界を象徴的に示すものであり、このことは「人間性の再生」を提唱したヴェルプの理念とも明らかに矛盾する行為であった(五月女、2020b)。こうした、当該地域の人々に主体性のない、いわゆる「人間動物園」は、このブリュッセル万博をもって万博という舞台からは姿を消した。
 

テーマ重視の表と裏:ブリュッセル万博(1958年)


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3-1-4. ブリュッセル万博協会の事務総長ヴェルプによる論文「テーマについて(The Theme)」
Ch. Everarts de Velp, The Theme, The Theme of <Brussels 1958> BALANCE SHEET FOR A MORE HUMAN WORLD, 1956
エヴェラルツ・ド・ヴェルプ
1956年(昭和31年)
 基本理念の役割も果たしたこの論文でヴェルプは、同時代の視点から「顕著な新事実」や「未来」だけでなく、「多様性」が重要であることのほか、核の脅威や公害問題を念頭に置いた「危険性」までも提示した。

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3-1-8. 絵葉書(コンゴ人男性)
Expo'58 Postcard (Congo Belge) Bakete Man from Mweka


米国史上最大規模の万博:ニューヨーク万博(1964年〜1965年)

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3-2-2. 土産品(皿)


テーマを重視し、世界各国に参加を求めた万博:モントリオール万博(1967年)

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3-3-6. 公式ガイド
Maclean-Hunter Publishing Company Limited / The Canadian Corporation for the 1967 World Exposition
1966年・1967年(昭和41年・昭和42年)



テーマ重視型万博の継承:大阪万博(1970年)

テーマ:人類の進歩と調和(Progress and Harmony for Mankind)

 大阪・吹田の千里丘陵において日本で初めて1970 年(昭和45 年)に開催された大阪万博は、高度経済成長を成し遂げ、経済大国となった日本の象徴的なイベントとして語られることが多い。開催期間は1970年(昭和45 年)3月15 日から9月13 日の183 日間、来場者数は6,421 万8,770人、参加国・地域等の数は77 であった。主催は財団法人日本万国博覧会協会である。「人類の進歩と調和(Progress and Harmony for Mankind)」をテーマとし、1964 年(昭和39 年)の東京オリンピック以来の大型イベントとなった。
 大阪万博では、多くの建築家・芸術家・企業らがパビリオン建設や展示・イベント制作に関わった。パビリオンの展示方法は、モントリオール万博日本館の反省を踏まえ、モノよりも映像や音響を通じたイメージによってテーマを訴えるという展示が多く採用された。また、岡本太郎の発案で、テーマ館の一部である太陽の塔の地下に人類の原点を示すという狙いから、世界の仮面や神像などの民族資料が収集・展示された。後に、そのほとんどが国立民族学博物館に収蔵されることになる。
 大阪万博の開催に至る過程で、直接的な意味で最初期の動きに位置づけられるのは、後に大阪市長となる中馬馨の国際見本市開催や万博誘致構想といっていい。それらが、その後様々な変遷を経て、具体的な大阪での万博誘致運動につながっていった。そうした中、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊らを中心とした自主研究会「万国博を考える会」は、経済偏重だった万博誘致や開催に向けての動きに対し、理念や構想面で大きな貢献をしていくことになる。彼らは、基本理念の草案作成に深く関与し、テーマ委員会はその基本理念に基づき「人類の進歩と調和」というテーマを決定した。
 当時は、日米安全保障条約の自動延長に反対する安保闘争が吹き荒れていた時代である。そのような中でベトナム反戦運動や成田空港問題とも絡みあいつつ、万博は安保条約の自動延長から国民の目をそらすための国家イベントであるなどとして、その開催自体への反対論にもつながっていった。安保闘争に参加する人々からは、万博のテーマや「考える会」が起草した基本理念に対する批判もあったが、「考える会」による基本理念は、それまでの「人類の不調和を伴う進歩」から脱却し、「人類の多様な知恵を使った調和的進歩」へと転回することが必要であると主張しており、そうした内容を読む限り、基本理念やそれに基づくテーマはこのような様々な反対論をも包摂することを目指した“調和的な”ものだったともいえる。
 基本理念とテーマは、会場計画、パビリオンの建設と展示計画、デザイン計画、イベント企画などあらゆる面において参照された。ここでは、主にそれらに関連した資料を紹介する。

テーマ重視型万博の継承:大阪万博(1970年)(「万国博を考える会」とテーマ委員会)

小松左京ライブラリからのメッセージ

 小松左京は、多角的に万国博のあり方を検討する知的ボランティア「万国博を考える会」に参加したことで、70年大阪万博という巨大プロジェクトの理念づくりの一端を担うまでになりました。
 そして、この博覧会において、“人類が克服しなければならない問題”を提示するとともに、“あるべき未来のシミュレーション”を構築しようと試みました。
 2025年の大阪・関西万博の準備が本格化するなか、小松左京の没後見つかった「万国博を考える会」の記録から、この会に関わられた方々の未来社会への想いを感じていただければ幸いです。

小松左京ライブラリ(外部ページ)

 
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3-4-1. 議事録:「国際博を考える会」を結成する準備について
於:現代文化研究所
1964年(昭和39年)6月28日開催
小松左京ライブラリ蔵
 「万国博を考える会」の最初期の資料。「万国博を考える会」(この資料では「国際博を考える会」)の準備会合的な位置づけ。後に主要メンバーとなる、梅棹忠夫先生や加藤秀俊先生は参加しておらず、朝日放送のPR誌「放送朝日」の編集長であった仁木鉄氏が、全体をコーディネートしている。(小松左京ライブラリ)
 「万博を考える会」の関連資料として存在が確認されている中では、最初期のものである。当初は、「万国博覧会」ではなく、「国際博覧会」という言葉が関係者や報道機関などの間で使用されていた。(五月女)

 
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大阪国際博の組織論―主としてB.C乃至コアの立場からの試案―
1964年(昭和39年)8月1日開催
小松左京ライブラリ蔵
 「万国博を考える会」の初期資料の一つ。組織のあり方や博覧会開催までのロードマップを、多角的かつビジュアル的な手法を駆使し検討している。(小松左京ライブラリ)

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商工会議所、ニューヨーク世界博協力会
1965年(昭和40年)1月21日開催
小松左京ライブラリ蔵
 当時、副総理兼体育振興のスポーツ担当だった河野一郎大臣が提案した万博複数会場案に対し、大阪商工会議所に現状を問い合わせた際のレポート。(小松左京ライブラリ)

 
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第2回「万国博を考える会」議事録
    於:京都・大徳寺大慈院
1965年(昭和40年)3月7日開催
小松左京ライブラリ蔵
 宇野宗佑議員(後に総理大臣)を招いての会合議事録。宇野議員を通じて河野一郎大臣との接触する旨が記されている。(小松左京ライブラリ)

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3-4-2. テーマ特別委員会(オーソライズ グループ)候補者名簿
1965年(昭和40年)7月頃作成
小松左京ライブラリ蔵
 万国博のテーマを決める委員会のメンバーを検討する際のメモ。非公式のブレインに過ぎない「万国博を考える会」が、テーマに関する最重要委員会の人選に大きく関与していたことが読み取れる。(小松左京ライブラリ)
 「万国博を考える会」は、万博の理念とテーマを決定するためのテーマ委員会委員の候補者原案を博覧会事務局からの依頼により提示した。委員の人選が始まったのは、1965年(昭和40年)7月に日本万国博覧会協会の準備委員会である大阪国際博覧会準備委員会が発足した直後のことであった。梅棹によると「正副委員長には茅誠司東大教授と桑原武夫京大教授が内定していた。ほかの委員20名ばかりの人選は、けっきょく、わたしたち『万国博をかんがえる会』でおこなった。京都北白川のわたしの家の広間で、深夜までかかって委員のリストをつくりあげた」という。「万国博を考える会」によって作成されたとみられる候補者名簿では74人の名前を確認することができる。(五月女)

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テーマ展示物の収集費用試算表
1968年(昭和43年)9月4日作成
小松左京ライブラリ蔵
 テーマ展示である太陽の塔の地下に展示するための、世界の民族資料を収集に関するメモ。渡航に関する費用や担当者まで記した具体的プランになっている。(この収集品が後の国立民族学博物館が母体に。後に、第三代館長となる石毛直道先生の名前も)。(小松左京ライブラリ)

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日本万国博覧会テーマ展示基本設計(遺伝子落書き入り)
<地上展示><地下展示><塔内展示><空中展示>の概要―
1968年(昭和43年)9月
小松左京ライブラリ蔵
 テーマ展示である太陽の塔の設計に関する資料に小松左京が描いた落書き。太陽の塔内部を貫く生命の樹の根幹をなすDNAのイメージをつかもうとしていたと推察される。(小松左京ライブラリ)

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3-4-4.写真:「万国博を考える会」メンバー(左から、加藤秀俊、梅棹忠夫、林雄二郎、川添登、小松左京)
<地上展示><地下展示><塔内展示><空中展示>の概要―
1967年(昭和42年)11月4日
撮影:五十嵐道子氏、提供:梅棹淳子氏
 「万国博を考える会」の次なる展開である「未来学研究会」の頃の考える会メンバー。

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3-4-5. 万国博テーマ委員会議事録 (第1回~第7回)
大阪国際博覧会準備委員会 発行
1965年(昭和40年)9月1日〜1966年(昭和41年)5月17日
 本資料は、第1回から第7回までのテーマ委員会での速記録に基づく会議録である。公式記録(資料集別冊D-1)として後日刊行された分とは別に速報として関係者に配付されたものであるため、誤植もみられる。なお、第8回から第12回までは速記が取られなかったため、議事概要のみが作成された。


テーマ重視型万博の継承:大阪万博(1970年)(日本万国博覧会世界民族資料調査収集団(EEM ))

 
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3-4-10.12. アフリカ彫刻
1968年(昭和43年)〜1969年(昭和44年)収集
 EEMの団員の一人としてアフリカに派遣された片寄俊秀が、EEMでの収集と同時に個人的に購入した木彫。EEM収集の時代において、日本人や欧米人が持っていたアフリカ観の特徴がよく表れており、こうした特徴が太陽の塔の地下展示のために収集されたアフリカ資料にも反映されたと考えられる。これらの内いくつかは、マコンデ彫刻と考えられる。そのほとんどが東アフリカの黒檀によって作られるマコンデ彫刻は、その歴史は浅いが有能な作家による彫刻が国際的に注目を集めている。日本では、大阪万博で初めて作品が紹介されてから注目されるようになったといわれている。

テーマ重視型万博の継承:大阪万博(1970年)(国際交流)

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3-4-37. 外国人宿泊受入ホストファミリーの看板
日本万国博覧会宿泊インフォメーションセンター
 吹田市内の家族が外国人観客の宿泊を受け入れる万博協会のホストファミリー事業に参加し、自宅の玄関に掲げていた看板。万博協会は1969年(昭和44年)1月22日から3月31日の間に、約500戸の民宿引き受け希望者を募集した。条件は、①1970年(昭和45年)3月から9月の間の受け入れであること、②会場からほぼ1時間以内の距離にあること、③家族の中で1人は外国語を理解する人がいること、④水洗便所、浴室、電話があること、⑤寝具はベッドまたはマットレスを使用すること、⑥簡単な朝食(トースト、コーヒーか紅茶、ハムエッグかベーコンエッグ)を提供できること、であった。大阪万博の開催は、多くの国籍を超えた人たちの交流につながったが、この宿泊受入事業はその一例である。

テーマ重視型万博の継承:大阪万博(1970年)(反戦のための万国博覧会(ハンパク))

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3-4-42. ガリ版冊子『ANTI-WAR EXPO’69 反戦万国博覧会――人類の平和と解放のために』
於:大阪城公園
1969年(昭和44年)8月7日〜11日開催
反パク東京事務局 発行



おわりにー人類社会の課題解決をテーマとする万博の時代にー

 1994年(平成6年)6月の第115回BIE(博覧会国際事務局)総会では、21世紀の万博に向けた決議が採択され、万博を「人類社会の課題解決の場」として位置づけることが謳われた。その目的は、「人類の知識の向上および相互理解並びに国際協力への貢献」などとなっている。「自然の叡智」というテーマの元に開催された愛知万博(2005年)も、こうした万博の理念を実現しようとするものだったといえる。より明確な課題解決の場としての万博の位置づけは、直接的にはブリュッセル万博(1958年)での問題意識に基づくテーマ設定から始まり、それをモントリオール万博(1967年)が発展させ、それに続いて大阪万博(1970年)も継承したという流れがあってこそ実現し得たといえ、そうした意味において、大阪万博(1970年)のテーマや基本理念が発展的に戦後万博のバトンをつないだ役割は大きい(五月女、2020b)。
 翻って現在の国際社会を見渡すと、どのような社会が広がっているだろうか。貧困、紛争、テロ事件、差別など、世界には様々な社会の分断がみられる。最近では、2020年(令和2年)5月に米国の黒人男性がミネアポリス市警の白人警官によって首を押さえつけられた後、死亡する事件が発生した。このほかにも米国では同様の事件が数多く発生しており、構造的差別を解消するための抗議運動「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動」が全米で繰り広げられ、日本を含め世界に伝播した。大阪や京都などでも6・7月に行われた大規模な平和行進は、多様な文化的背景を持つ人々同士の関係構築のあり方を考える必要性が日本においてますます高まる中で、重要かつ象徴的な出来事として記憶にとどめておく必要があろう。
 このような世界において、万博は今後どのような役割を果たすことができるのか。市民一人一人がどのように万博という制度と向き合い、これを利用し、より良い社会を構築し得るのか、いま市民社会と向き合う万博の真価が問われている。

調和的世界は実現できないのか?:ブラック・ライヴズ・マター運動(2020年)と人類社会の課題解決のための万博

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4-1. 大阪と京都で使用されたBLMプラカードおよびポスター
2020年(令和2年)6月



引用・参考文献

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・梅棹忠夫 編(1973)『EEM:日本万国博覧会世界民族資料調査収集団(1968-1969)記録』日本万国博覧会記念協会

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・京都大学万国博調査グループ 編(1966)『日本万国博覧会会場計画基礎資料図集1970』財団法人日本万国博覧会協会

・京都博覧協会 編(1903)『京都博覧会沿革誌』京都博覧協会

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 同エキシビション EXPO'70――博物館からこんにちは!②』北大阪ミュージアム・ネットワーク事務局

・佐野真由子 編(2015)『万国博覧会と人間の歴史』思文閣出版

・澤田裕二(2017)「近現代社会と国際博覧会」国際日本文化研究センター共同研究会「万国博覧会と人間」における発表資料 2017年2月26日

・椎名仙卓(1988)『日本博物館発達史』雄山閣出版、pp.49-58

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・日本万国博覧会協会(1967)『テーマから見たモントリオール博』日本万国博覧会協会

・日本万国博覧会協会 編(1970)『日本万国博覧会――公式ガイド』日本万国博覧会協会

・日本万国博覧会協会 編(1971)『日本万国博覧会公式記録 資料集別冊 D-1 専門委員会会議録1 テーマ委員会会議録』日本万国博覧会協会

・日本万国博覧会協会 編(1971)『日本万国博覧会公式記録 資料集別冊 G BIEと日本万国博覧会――公信・書簡およびBIE議事録』日本万国博覧会協
 会

・野林厚志 編(2018)『太陽の塔からみんぱくへ――70年万博収集資料』国立民族学博物館

・反パク東京事務局(1969)『ANTI-WAR EXPO’69 反戦万国博覧会――人類の平和と解放のために』

・平野暁臣 編(2014)『大阪万博――20世紀が夢見た21世紀』小学館クリエイティブ

・平野暁臣 編(2018)『太陽の塔ガイド』小学館クリエイティブ

・福井庸子(2006)「明治初期博覧会における展示空間の生成――『博物帖』を手がかりに」『早稲田大学教育学部 学術研究』54:51-61

・丸山宏(1986)「明治初期の京都博覧会」(吉田光邦編)『万国博覧会の研究』思文閣出版、pp.221-248

・吉田光邦(1986)『万国博覧会の研究』思文閣出版

・吉見俊哉(1992)『博覧会の政治学』中央公論社

・若杉準治(1997)「明治8年創設の京都国立博物館」『京都国立博物館百年史』京都国立博物館、pp.31-53

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 Brussels 1958 Universal and International Exhibition, 1956, pp.3-15.



バーチャル・イベント

オンライン講演会

わたしの万博体験をふりかえって
石毛直道氏(国立民族学博物館 名誉教授・元館長)

「万国博を考える会」の梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊と深い交流があった
石毛直道先生が70年の大阪万博の思い出などについて話します。

 

博覧会の記憶と大阪――第五回内国博からEXPO’70まで
橋爪節也氏(大阪大学 教授)

1903年の第5回内国勧業博覧会から1970年大阪万博までの博覧会の記憶と大阪
について、お話しします。

「私たちは今ここに生きている」
――’70年万博で描いた50年後の夢の生活環境から’25年万博にみる未来に向けて
藤本英子氏(京都市立芸術大学 教授)

環境デザインの視点から、1970年万博で想像していたことが、どう現在と
寄り添っているのか等を検証してみました。

70大阪万博から’25大阪・関西万博へ
𠮷田憲司氏(国立民族学博物館 館長)

1970年大阪万博とその最大のレガシーといえる国立民族学博物館、さらに2025年
大阪・関西万博のあり方について話します。

1970年万博ブルガリア館――異文化との出会いとその展開
ヨトヴァ・マリア氏(立命館大学 准教授)

1970年大阪万博のブルガリア館に焦点を当てて、ブルガリアヨーグルトの
発見と開発、その後の展開についてお話をします。


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2010年の上海万博――テーマ『より良い都市、より良い生活』をめぐって
中牧弘允(吹田市立博物館 特別館長)

2010年上海万博のテーマ「より良い都市、より良い生活」の設定の背景や会場
での具体化についてお話します。

  

現代万博のテーマの変遷
五月女賢司(吹田市立博物館 学芸員)

万博テーマの変遷、特に1958年ブリュッセル万博の正と負の側面と
1970年大阪万博における基本理念作成の経緯をご紹介します。

オンライン・シンポジウム

 

在留外国人シンポジウム
「果たして調和的社会は実現できたのか――多文化共生社会のゆくえ」

1970年大阪万博の基本理念やテーマにおいて重要なキーワードである「調和」が、現在
果たして実現できているのか、在留外国人や研究者に語っていただくシンポジウムです。



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