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春季特別展「大坂の陣と吹田村-橋本家文書展-」

2023.6.22(木曜)

 

 令和5年度(2023年度)の春季特別展「大坂の陣と吹田村―橋本家文書展」が無事終了しました。会期は4月29日(土・祝)から6月4日(日)までの38日間であり、入館者総数は約1400名を数えました。5月8日からは新型コロナが第5類へ移行したのも手伝ってか、コロナ以前にほぼ完全復帰したとの印象をもちました。とくに講演会には定員80名を越える多くの申込みが寄せられ、抽選にもれて涙をのんだ方々が多数にのぼりました。その無念さをすこしでも晴らすため、ここでは5回の講演会をふりかえってみたいと思います。    
春季特別展展示風景
    
第1回 4月29日 「歴史遺産としての旧家」  
初回は開幕の日にあわせて開催され、藪田貫先生(関西大学名誉教授、兵庫県立歴史博物館館長)にご登壇いただきました。公人(政事)・私人(家事)・文人(文事・芸事)の3要素からなる「家」をモデルに、大坂の陣とかかわった旧家が取り上げられました。橋本家もそのひとつであり、冬の陣に際しては神崎川をはさんだ川向こうの中島一揆の懐柔にあたり、夏の陣においては大坂の天満宮を同家の屋敷内に遷座させたことが指摘されました。他方、旧家は領主に羨まれる存在でもあり、橋本家の場合も幕末に旗本竹中氏とのあいだで確執がみられました。竹中氏から橋本家の家祖筆跡の書簡の献上を命じられ、その代わり名字帯刀が許され、屋敷地の免除を受けることになったのですが、後に不正をとがめられ、竹中氏に両方の免許状を取り上げられてしまいました。これに対し、橋本磯五郎は江戸で老中への駕籠訴に及び、首尾よく免許状を取り戻すことができたのですが、講演では関西の他の旧家との比較を交えながら、その特徴を語っていただきました。 

 
橋本家敷地図(部分・個人蔵)
白丸内が御輿が安置されていたところ。南北三間四尺五寸、東西三間、十一坪の除地であることが記されている。
    

第2回 5月13日 「大坂の陣をめぐる武士の戦い、住民の戦い」
 宮本裕次先生(大阪城天守閣館長)は「浮世」をキーワードに大坂の陣をめぐる武士と住民の戦いを比較しながら、澤田家文書と橋本家文書についても対比して論じられました。命をかけて闘う武将たちにとって「うき世」は時に「憂世」とも「浮世」ともなり、かれらは不安定な世の中に生きる不安をかかえていました。武士の大量採用や大量解雇に翻弄されたり、戦さに勝っても処罰されたり、敗北しても子孫が取り立てられたりしたこともあり、まさに定めなき「浮世」だったようです。他方、住民の戦いにおいては、中島(神崎川の南)の澤田家文書を通してみると、豊臣方につき籠城した事例がある一方、徳川方に味方する勢力もあり、地域内の主導権争いが顕在化した様子が浮かび上がってきました。吹田(神崎川の北)の橋本家文書では3通の書状の正文(しょうもん)がみつかり、『吹田市史』の記述を部分的に修正する必要があると指摘されました。このように神崎川をはさんで隣接する地域において、大坂の陣にまつわる史料が隣り合わせで存在することの重要性を確認することができました。


 
重要文化財 大坂夏の陣屏風(左隻第五扇・六扇部分 大阪城天守閣蔵)
神崎川周辺の様子が描かれている。中島の北へ逃げる人々、神崎川を渡って逃れる人々、豊中あたりの混乱した様子が描かれている。豊中より上に描かれた田園風景は吹田の風景であろうか。

第3回 5月20日 「荒木村重と戦国の吹田津」  
 天野忠幸先生(天理大学教授)には荒木村重と摂津、とりわけ吹田津(すいたのつ)との関係について詳細に解説をしていただきました。そのなかで印象に残ったことを2点書きとめておきます。ひとつは信長の伝記である『信長(しんちょう)公記(こうき)』がとても読みやすいこと。そのため村重と信長の関係もそれにもとづき、村重は「小身から取り立てられたのに裏切った恩知らず」あるいは「家族や家臣を見捨てて逃げた卑怯者」としてイメージされ、信長は「寛大で、家臣を信じる心優しい主君」とみなされていること。しかし、信長は討死(うちじに)ではなく、何人もの家臣に背かれ、ついには光秀に謀反をおこされたこと、また摂津西部の百姓は村重について抗戦していることなどの例を挙げ、両者に関する現代的イメージに疑問を投げかけたことです。もうひとつは、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した家康が征夷大将軍になったものの、実質的には「豊臣徳川連合政権」とでもいうべき体制が続き、ようやく大坂の陣(1614~15年)で徳川氏が唯一の公儀になったという点です。その際、徳川方は冬の陣において港町尼崎で「米止め」という大坂城の経済封鎖をおこなったとのこと、ならば川港であった吹田津をおさえた橋本家が徳川方について台頭することになったのもむべなるかなと(勝手に)思った次第です。


絵本太閤記(吹田市立博物館蔵)
天正六年(1578)十月、荒木村重は毛利方に寝返り、織田信長に対して謀反を起こした。天正七年(1579)九月、村重が有岡城を脱出して尼崎城へ向かう場面が描かれている。

第4回 5月27日 「『橋本家文書』の高山右近禁制と北摂の戦国時代」  
橋本家文書には家康のものをはじめ、戦国大名等の禁制(きんぜい)の正文が8通含まれています。そのひとつである「高山右近允禁制」を取り上げ、北摂の勢力図についてパワポを用いてわかりやすく語ってくださったのは中西裕樹先生(京都先端科学大学准教授)です。中西先生は高槻市立しろあと歴史館の学芸員を長くされていたこともあり、高槻城主でもあった高山右近を語るには最適の講師であり、新たに発見された1枚の禁制から広がる戦国時代の北摂は興味の尽きない地域に変貌しました。とりわけ右近の花押(かおう)のタイプを5つに分け、橋本家文書の禁制をC型に分類し、その年次を比定してゆく手法には魅せられました。また、勢力図とはいっても、茨木の中川清秀と高槻の高山右近の場合、現在の行政単位のようにすっきり分かれていたわけではなく、重複している地域もあり、また紛争もあったこと。そして、花押の改変が身分や立場の変更を表示するものであったことなどをふまえて、9月13日の日付しかない右近の禁制は天正11年のものではないかと結論づけていただきました。



高山右近禁制(部分)(橋本家文書・個人蔵)
高山右近禁制の署名・花押部分。年不詳であるが、中西氏は、花押のタイプ、当時の北摂の情勢から、天正十一年(1593)のものと推定された。

第5回 5月28日 「橋本磯五郎、駕籠訴におよぶ―由緒家を守る―」
これは橋本家文書展を担当した当館の池田直子学芸員によるものです。前半では大坂の陣と橋本家文書の関係について展示に即した紹介がなされ、後半で「御免許状始末書控」にもとづき磯五郎が駕籠訴におよんだ顛末が詳しく解説されました。それによると、文政2年(1819年)、旗本竹中領の庄屋をつとめていた橋本家が竹中氏との関係を示す家伝の文書を上納し、その見返りとして名字帯刀を許され、清太夫・磯五郎父子が竹中氏に仕えるようになった。しかし、清太夫に不行届があったとのことで父子は退役を命じられ、免許状も取り上げられてしまった。それでは先祖に申し訳ないと悲嘆に暮れていたが、天保4年(1833年)磯五郎は一大決心をして江戸に赴き、老中への駕籠訴におよび、翌年、寺社奉行の裁決によって免許状はふたたび清太夫のもとに戻りました。こうして橋本家は吹田村の郷士的存在として由緒家の家格を保持したわけですが、駕籠訴におよんだのは磯五郎がかつて大塩平八郎の教えを受けていたことが影響していたのではないかというのが池田学芸員の見立てであり、それが実際の展示にも反映されていました。


歴史講座の様子

* 以上、5回にわたる充実した内容の講演を簡単に紹介させていただきました。 第3回目の天野忠幸氏の講演会は、後日当館ホームページ・オンライン講座にアップする予定です。

(2023.6.18)


 

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