大むかし (2000年ほど前から)

垂水・榎坂から神崎川にかけて、高川、糸田川が流れ込み、葦や水草が繁る一面の湿地帯でした。所々に水田もみられ、水面よりほんの少し高くなったところには、葦や藁で葺かれた竪穴式の住居が数戸ずつかたまっています。戸外では、田で働く人、川で漁をする人、裏の垂水の森で木の実を採る人、家の前で土をこねている人・・・・・もうかなりの人がこの地に住み着いていました。

武士の時代 (700年ほど前から)

糸田川、高川、天笠川を境にして四つの村ができ、まとめて榎坂郷と呼ばれていました。垂水村と榎坂村の境には流れ落ちる美しい滝を祀った垂水神社が多くの人々に信じられていました。榎坂郷の人々は苦労してつくった米の大半を税として春日大社や東寺へ納めていましたが、村人の中には榎木太郎佐衛門のように、彼等に反抗して税を納めるのをやめてしまう人もでてきました。このような人達は悪党と呼ばれ、貴族や社寺から憎まれましたが、次第に力をつけて、豪族となっていきました。
この頃、榎坂村には、170町歩余りの田畑があったそうです。やがて、稲荷神社、江坂神社も鎮守の社として祀られるようになりました。(大池も灌漑用溜池として利用されていたようです。)また、能勢街道に沿い交通の便がよかったこともあって、米づくりの他に副業として藁細工も盛んで、豊島筵の産地として知られるようになりました。

明治になって (100年ほど前から)

榎坂に小学校ができました。明治8年に法泉寺を仮校舎として榎坂小学校が開校し、明治22年に榎坂、垂水両村は合併してお互いの村内の地名「豊」と「津」をとって豊津村となるとともに榎坂小学校も垂水小学校と合わさって明治30年には豊津尋常小学校になりました。
昭和15年に吹田市ができ、榎坂村も大字榎坂と呼ばれるようになりましたが、昔と変わらない田園地帯で、人々は豊かな自然のなかでくらしていました。ところが、昭和40年頃から新御堂筋線、北大阪急行が開通したこともあいまって、急激に人口が増え、一面の田畑がビル、マンション、倉庫に一変し、榎坂も江坂町と表記されるようになりました。学校の数も増え、吹田南小学校、豊津第二小学校がつくられ、昭和54年には本校の誕生をみることになりました。 

鎌倉時代の榎坂郷

明治時代の榎坂地方